愛してる愛してない、愛してるに決まってる

これをラブレターと呼ぶことを、彼は許してくれるだろうか。



わたしにとってアイドルは、人生において何番目の存在だろう?


ふと、こんなことが頭に浮かんだとき一番ではないってことだけはすぐに分かった。わたしの人生の一番はアイドルじゃないし、もちろんアイドルの一番もわたしじゃない。


当たり前のはなし。


もしもわたしにとっての一番がアイドルで、アイドルにとっての一番がファンだとしたら、それはもう依存と呼ぶ気がする。美しくない共依存。そんなつまらない関係にはなりたくない。



ついさっきアイドルはわたしの人生で一番ではないと言ったけれど、唯一ではある。


キラキラ輝いていて、そのキラキラのために命がけの努力をしてる人が好き。でもそんな努力なんかこれぽっちも見せないでテレビの画面の中でいつもにこにこ笑ってキラキラを振りまいてる職業:アイドルの人が好き。だってそんな人わたしの周りにはアイドル以外にいないから。だからアイドルが唯一になった。 


でもアイドルの一番がわたしでないのと同様に、唯一もわたしではない。


遠いなあといつも思う。コンサート会場が遠い。これは物理的に。マジで遠い。ドーム行くのにアクセスがいい感じの物件ないかなって引っ越しのたび気にする。ない。あとそもそもチケットが当たらない。つらい。


そしてやっぱり心の距離も遠い。


そんな風に遠い関係がある意味で心地良いのかもしれない。少なくともパーソナルスペースが広いわたしにとってはとても心地良い。ドームで左手にうちわ、右手にペンライトを持ってそのペンラごと手を振って、運が良ければ気づいてくれて目があった…かもしれない…?と勘違いしてしまうそんな距離。きっとこれが程良い距離感てやつ。


そういう距離感だから彼らがどんなことを考えているのか、想っているのかわたしには分からない。それと同じように、彼らもまたわたしの考えも想いも分からない。


お互いに分からないことだらけだけど、わたしはアイドルが好きだと自信を持って言い切ることができる。


何も分からないのに「好き」ってとても不思議で面白い。恋人のことを何も分からないまま「好き」だとは言わないのに、アイドルのことは「好き」だと言う。その辺を歩いている人に「好き」だとは言わないけど、流し見してたテレビにたまたま出ていたはじめましてのアイドルに対してはすぐに「好き」だと言う。


「好き」をこんなに簡単に言葉にして伝えられる相手は、わたしにはアイドルしかいない。だってこのたった二文字を、わたしは家族にすら言えない。


きっと言わなくても家族は分かってくれるから言わないのかもしれない。恥ずかしさも照れもあるし。その逆でアイドルには「好き」だと主張しなければ伝わらない。もっとあけすけに言えば「好き」だと主張したうえで、発売されるシングルやアルバム、ライブ映像を雑誌をグッズをその他公式から供給される諸々を買ったり観たりして数字にしなければアイドルにはわたしの「好き」が伝わらない。数字で殴る、というのはアイドルに限らずどのコンテンツでもそうだと思うしわたしはそういうヲタクが好きだけどね。


顔が好き?歌が好き?ダンスが好き?それとも演技?性格?いつからか分からなくなった。ぜんぶ好き、は許される?


分からない。ぜんぶ好きってそれすなわち何も知らないみたいってちょっとだけ思った。そんなことないはずなのに。どこが好きなのか主張できないと許されない気がしてしまうのはなんでだろう。永遠の疑問で人生のテーマ?めんどくさい。ぜんぶ好きでいいでしょもう。ってなるまでがわたしのテンプレ。閑話休題



「好き」と叫ぶだけでは届くことがないくらいに離れたところにいるファンは、火事に気がつかない場所にいるのと同じなのだと思う。気がつかない、じゃなくて、気がつけないの方がもしかしたら正しいのかもしれない。それは彼らのプロ意識のなせる技で。だから燃えていることを知らずに彼らのことをカッコイイとかカワイイとか、それから「好き」だと主張する。


それでしばらくして、わたしたちが燃えている彼らに気がついたとき、もうすでに手遅れなんだろう。


サイレンがうるさくて。赤く赤く燃えていて。彼らの周りはなぜ気がつかなかったのかと唖然とするほど業火で焼かれている。でも気づいたからといって燃えている彼らのそばにはどうしたって近づけない。


危ないからこれ以上は近づかないで、と張られたテープのこちら側でただ見て受け止めるしかない。あちら側はごうごうと燃えているのに。燃えている彼らと共に燃えることも、その火を消すこともできない。



わたしはあの会見が開かれてすばるくんが口を開くまで、週刊誌が書いた「脱退」なんて全然信じてなかった。そんなつまらないことを面白おかしく書いて関ジャニ∞やそのファンを傷つけないでほしいとも思ったけど、それよりも何言ってんだかって笑ってた。あの7人のことをなんにも知らない人が騒いでて、ファンだという人たちはほとんどみんなそんな反応だった気がする。(※超主観)脱退?ありえない。なんならすばるくんの脱退より関ジャニ∞の解散の方がほんの少し、本当にほんの少しだけリアルだなとすら思えてきてそっちばかり心配してた。(ごめん)


それは彼らがそんなこと一ミリも気づかせないよう今まで通りの彼らでいてくれたからで。彼らが必死に隠していてくれたからで。だからわたしは気づかなかったし、信じなかった。会見の日に知った彼らのその優しさが、うれしくてうれしくて仕方なくて。それからどうしようもなく痛かった。



ファンのもとに届く「お知らせ」は、覆ることがない。


過程をすっ飛ばして「結果」だけが届けられる。


わたしはあの日何が悲しかったんだろう。何が悲しくてポロポロと涙をこぼしたのだろう。すばるくんが関ジャニ∞ではなくなること?ジャニーズをやめること?アイドルではなくなること?その歌声が聞こえないくらい遠くへ行ってしまうかもしれないこと?


どれも全部悲しくて。


だけど、これだけじゃなくて。


わたしがどうあがいても、この事実が変わらないことが堪らなく悲しかった。


泣こうが喚こうがどっかのビルから飛び降りようが変わらない。わたしがこの事実を受け入れたとしても、受け入れられなかったとしても、すばるくんはいなくなって関ジャニ∞は6人になる。タイムリミットは変わらないし、時間は止まらない。


それが悲しかったのか、としばらく経ってから腑に落ちた。


7人でいたことや、やり遂げたことが無かったことになるわけでも、嘘になるわけでもない。それでも悲しい。どうにもできないことがこんなにも悲しいなんて初めて知った。勝手に涙が出て目が腫れてこの世の終わりみたいな気持ちになった。できることならこんな気持ち、知らずに生きていきたかった。こんなの知るために関ジャニ∞を好きになったわけじゃないとさえ思った。それから、勝手に好きになっておいてこんな時までアイドルのせいにする自分のことが信じられないくらいに嫌になった。


アイドルだから、アイドルのくせに、アイドルなんて、そんなくだらないもの持たずに彼らを好きになった自分のことがわたしは好きだったはずなのに。唯一の胸を張って言えることだと思っていたのに。すばるくんを嫌いになれない代わりにわたしは自分のことを嫌いになった。嫌いになったおかげで、どうしようもないくらいにわたしはアイドルが好きなんだと自覚できた。


アイドルを好きになるってすごく素敵で、すごく楽しくて、でもどこか心臓を人質に取られてる気分。わたしの嬉しいとか悲しいとかそういう全ての感情の引き金を握ってるのはアイドルなんだ。


他の誰でもないわたしが、握らせた。




その引き金が引かれてしまったあの日‪、だいすきなひとにだいすきなものを奪われた気分になった。もともとわたしのものではなかったのに。それからあの会見で「申し訳ない」とすばるくんが謝ったとき、許さなきゃいけないのか、と苦しくなった。


だって「ごめん」って言われたら「いいよ」って返してきたのがわたしの人生だったから。



わたしはまだあなたのことを許せていない、と思う。(許すという言葉が正しいのかも分からないけれど)この先許すというかあなたの決断が正しかったんだと思える日が来るのか分からない。正直まだ当分来そうにない。関ジャニ∞から離れたこと後悔してよって心のどこかで思ってる。でもそれと同じくらい強く必ず夢を叶えてよって思ったし、わたしもごめんねって謝った。


何も気がつかなくてごめん。何も知らないでごめん。勝手でごめん。わたしが何気なく思ってること、言ったこと、感じたこと、直接はすばるくんに届いてないだろうけどでもごめん。ってもう何に謝ってるのかそもそもなんで謝ってるのかも分からなくなったけれど、わたしのこの「申し訳ない」って気持ちを何とかしなきゃいけない気がした。何とかしなきゃこれからの「関ジャニ∞」と名前の前に付かない渋谷すばるを応援しちゃいけないとどこかで思ったのかもしれない。


勝手に期待して勝手に一生アイドルなんでしょ?って思って、勝手にあなたを神様にした。この身勝手があなたの夢とあなた自身を傷つけたかもしれないと思うと謝ることしかできない。本当にごめんね。


でもね幸せだった。あなたを含む7人からたくさんの幸福が届いたよ。過去も今もそして未来もその幸福を糧に毎日生きていける気がするんだよ。それってすごいと思わない?すごいんだよ。とてつもなくすごい。こんな人たち好きになる以外の選択肢ない。関ジャニ∞が出会うべくして出会った7人ならば、わたしも出会うべくして関ジャニ∞と出会ったんだって自惚れてもいい?


なんて聞いたらどう答えてくれるんだろう。「ええよ」?それとも「きっしょ」って言うかも。



分からない。だってわたしは渋谷すばるじゃないから。わたしは、あなたではないし関ジャニ∞のメンバーでもなくてわたしのままだから。わたしは、わたしにしかなれない。


わたしがこの先の人生、一生あなたたちを好きでいられるのかさえ分からない。人の気持ちは変わるものだし、永遠なんて無いことはあなたに教わった。でもわたしは関ジャニ∞を好きになったことを運命にしたい。出会いそのものをじゃなくて、歌を聴いて、レギュラー番組を観て、そうやって少しずつ関ジャニ∞のことを知って好きになっていった過程を運命と呼びたい。




関ジャニ∞のこと、嫌いになれなかったのは7人全員が「最後」を何一つとして間違えることなく迎えてくれたからだよ。

あの会見を「すばるの晴れ舞台」だと言った横山さん、自分の気持ちを素直な言葉で伝えて寄り添ってくれた大倉さん、ケガをしてきっと痛かったり苦しかったり悔しかったり、いろんな感情の渦の中にいたときに無理をしてでも「7人揃っての最後」を叶えてくれた安田さん、「着いてこいよ」と未来へ引っ張っていく覚悟を見せてくれた錦戸さん、誰よりも一番いつも通りの自分でいようと強く努力してくれた村上さん、会見にメガネをかけて安田さんを連れてきてくれたりすばるくんに対して「ほんまにおまえの歌が好き」とどこまでもやさしくいっぱいの愛を行動や言葉にしてくれた丸山さん。



すばるくんがいなくなるという事実が、こんなにもあなたと関ジャニ∞は愛されていて、こんなにもファンを愛していてくれたのかと気づくきっかけになるなんてどんな皮肉だろうとも思うけれど、それでも誇らしいと感じてしまって困る。こんなの見せられたらもう、あなたたちのしあわせを願ってしまうじゃん。たとえその新たな夢を掲げ、叶えていく過程の姿をわたしが見れなかったとしても、しあわせに生きることを選んでほしいと思ってしまった。6人も1人も、7人ひとりひとりがしあわせに。だってしあわせにならなきゃだめな人たちだもの。


そのための選択ならなんとか飲み込んで受け入れられる気がした。あなたがやりたいことをやれる世界であればいい。あなたが生きる世界が少しでも息をしやすい場所であればいい。それからその世界で、ただあなたがしあわせであればいい。それでまたいつかその声で歌をうたって聴かせてほしい。


しあわせを自分の手で掴み取ってみせてほしい。



わたしの人生は当たり前にわたしが主役なので。限られた人生の時間をどう使うか決められるのもわたしだけなので。わたしのしあわせは、わたしが決めるので。


だからあなたも何がしあわせなのかを自分で決めて、手に入れて。それで出来たらいつか、しあわせの中にいる姿を見せてくれたらいいな。もしもその「いつか」が来たなら、わたしはこの上ないしあわせを感じられるはずだから。



すばるくんと6人になる関ジャニ∞の選択をわたしは、正解じゃなくかといって不正解でもなく、最適解だと思うことにした。





わたしが持ってたあなたへの気持ちはもう綺麗な色ではなくなってしまった。例えるなら、絵の具で絵を描き終わったあとバケツの水の中に残る汚れた色。怒りも悲しみも寂しさも、好きだって気持ちも、あなたが背負ってた赤色もぜんぶぜんぶ混ぜた色。前みたいな色には戻らない。この先あなたを見るたび、声を聴くたび、そんな不可逆色の感情に襲われるんだと思う。気持ちいいものではないけれど、しょうがない。受け入れよう。だって好きだから。



人生の半分である20年と少しをアイドルとして生きてくれてありがとう。その半分に最大の敬意と感謝を。そしてこれからの人生に盛大な拍手と応援を。


あなたが持て余すほどの幸福がこの先必ず訪れますように。ケガや病気、いろんなことに気をつけて。


誰でもないあなたを生きてください。

さよなら、またいつか会うまで。



渋谷すばるさんへ


37歳、おめでとう。